YANAGISAWA 株式会社 柳澤商会

沿革と歴史
柳澤商会物語 その2

独自の商法で基盤を築く

柳澤商会は、地場に根ざしながらも時々の時代のニーズに的確に応える実直な姿勢を貫いてきた会社ではないでしょうか。山間に囲まれ農耕地の乏しい山梨は、古くから様々な産品を背負っては全国を歩く行商人(出張販売)の多い土地柄でした。このパワーが、実は地域の経済を支えてきたのです。今日立派に成長した宝飾企業にも、そんな小商いからスタートした会社がいくつもみられます。早くから仲間売りを始めた同社は、多くの仲買人が出入りする大切な拠点となっていきました。

通信販売もその展開ぶりは他よりぬきんでるものがありました。全国多額納税者名簿を取寄せ、直接品物を送る方法をとり、取り扱い商品も水晶製品に限らず、甲斐絹、洋傘、真綿、印伝まで広げました。買う人が多くなればそれだけ送料の埋め合わせもつき、利益を上げることができます。現在の通販のアイデアは実に半世紀も前から、確実に展開されていたことになります。

時代の求めに応じ、店頭売り、通信販売、出張販売、仲間売り、そして輸出と手広い商売で基盤をつくり上げた政吉氏は、戦後しばらくして、2代目柳澤政利氏に経営を譲ると、自らは実家で営む上一条町(現、城東1丁目)の郵便局長となり、悠々自適の晩年を送ったそうです。

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戦前の桜町通りの店舗ビル(昭和6年頃)

復興は地下に残った水晶から

産地形成も整い、ようやく海外へも輸出されるようになってきた甲府の水晶宝飾産業は、太平洋戦争に突入すると、致命的な打撃を被りました。とりわけ、昭和15年7月に出された「七・七禁止令」(奢侈品製造販売制限規則)により、いっさいの装飾品の製造販売が禁止されてしまいました。政利氏自身も昭和13年に出征、数年の軍隊生活を送り、多くの社でも有能な職人や営業担当が次々と応召され、軍需品の受注でようやく息をつなぐほどでした。昭和20年7月のB29による甲府空襲では同社の社屋も戦禍を免れることはできませんでした。しかし、終戦の混乱のなか、同年の10月にはほど近い末木紙店の焼け残った建物を仮店舗に営業を再開。忘れ去られていた身の装いを人々の心に呼び覚ませた最初の店となりました。復興が早かったのは、鉄筋コンクリートで固められた地下室に、無傷のまま残つた多量の水晶製品のおかげであったそうです。今となっては楽しいエピソードですが、灰庫に帰した焼け跡から水晶製品や原石をひとつひとつ掘り出すことから、まずは復興の第一歩が始まったのでしょう。

戦後まもない柳澤商会の店舗には、英文でYANAGISAWAと大きく書かれていました。日本人の多くがまだぎりぎりの暮らしを余儀なくされていた時代、お客様は進駐軍やアメリカ人ブローカーがほとんどでした。PX(アメリカ進駐軍の購買局)への水晶製品やスーべニアの多量納入はひと一倍の努力を必要としましたが、復興への大きな手掛かりとなりました。ほどなく海外との取り引きも再開、貿易が自由化されると、水晶製品の輸出も順調な伸びを見せ始めました。昭和30年代になると時代もずいぶん明るくなってきたのでしよう。当時の人気雑誌「少女倶楽部」に紹介された同社の店頭には、伝統的な水晶細工と共に、様々にデザインされた水晶ネックレスが溢れています。モデルのひとりは小鳩くるみだそうてす。やがて豊かな時代に向かおうとする懐かしい風景です。

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