甲府の宝飾業界の復興は、多くの人々の努力でめざましい勢いで進められました。
早や昭和21年には山梨県水晶組合が結成、さらに翌年には研磨工業試験所も設置され、水晶製品の輸出を再開する企業も現われてきます。同社の長い伝統は、製造のノウハウでもまた営業のネットワーク作りにも大いに役立つことができました。昭和28年には、今日の山梨県ジュ工リー協会の前身となる山梨県水晶商業協同組合が発足、同社もリーダー企業のひとつとして参加。また翌年には、有力企業20数社が、新しい時代にふさわしい宝飾産業をめざして、山梨県装身具研究会を発足し、今日に続くSOKYOフェアも輝かしい第一歩を踏み出すことになります。
昭和30年代も後半になると、高度経済成長期を経て、私たち日本人の生活も大きく変わつてきました。よりクレードの高い宝飾品のニーズは日常化し、同社もまたデザイン志向のハイクオリティーのジュエリー開発に積極的に取り組むようになりました。東京オリンピックと前後する昭和40年、ミスオーストラリアのグランプリの王冠を製作した同社関係の技術スタッフの記念写真からは、本格的なジュエリーに挑戦するはつらつとした自信が感じられます。現地オーストラリアの新聞に報じられた、ミスオーストラリアと共に微笑む政利氏の姿は、どこか先代政吉氏の得意のポーズを思い出させます。
独特のノウハウと甲府の宝飾業界に特異な地位を築いてきた伝統的な柳澤商会の商法は、3代目の柳澤政樹氏が経営を継ぐ昭和50年代あたりから、大きな転換期を迎えました。甲府が質量とも巨大なジュエリー生産基地ヘと発展するにつれ、県内の業社への商品提供だけでなく、将来を見すえて、広く業界全体をシェアに、独自の営業ネットで優れたジュエリーを提供してゆくことになります。先進地ドイツのイーダーオーバーシュタインを訪れたり、斬新なデザインをめざして様々な技術革新にかかわるようになったのもこの頃のことでした。
やがて長い間の安定した経営力を基盤に、高級ジュエリーからカジュアルなファッションリングまで、アイテム別にマーケット分析をし、幅広い商品開発を行うようになりました。対外的なジュエリーコンテストやSORJEコンテストで次々と新作を発表し輝かしい賞を授与。次第にその高いクオリティーが認められるようになり、きめ細やかなサービスと併せて、様々な業態のお客様の信頼を得るようになりました。
平成7年3月、バブル経済崩壊後の厳しい情況下に、甲府郊外の700坪の敷地に2階建ての機能的な現社屋を竣工。“宝石の街・甲府”、“貴金属の山梨”の伝統の老舗企業として、又、新しい世紀を歩むリーダー企業として、再出発を強く印象づけています。
機能性を重視した現社屋