YANAGISAWA 株式会社 柳澤商会

沿革と歴史
柳澤商会物語 その1

ひょんなことから水晶販売

宝飾企業が多い甲府でも、明治期に創業し今なお活躍する会社はわずかしかありません。柳澤商会の旧店舗は繁華な桜町通りのシンボル的な存在。辺りの家並みと共に水晶細工の並ベられたショーウインドーを思い出される方も多いはずです。最初はもっと北の角地にあったそうですが、ここ桜町3丁目(現、中央4丁目)ヘ移ったのが昭和6年、2代目柳澤政利氏(現会長)が甲府商業学校の3年生の時といいますから、かれこれ数十年営業を続けたことになります。

柳澤商会の創業は明治40年(1907)頃、創業者の柳澤政吉氏が水晶宝飾業にかかわるようになったのは、日露戦争で体をこわし転地療養中のひょんな偶然によるというのだから、何ともユニークです。療養先の知人に山梨の水晶細工を取り寄せてくれるよう請われたことが、この道へ入るきっかけであったそうです。甲府ヘもどると以前から勤めていた三井荒物店の番頭をやめ28歳で独立、水晶印材や箸や風鎮を背負い全国を行商して歩き始めました。仕入れ先の甲斐物産商会ではいち早く地場産品の通信販売を始めていましたが、成績の良い政吉氏はとりわけ優遇され、やがて和田平の実家を拠点に自らも販売を始めました。

居ながらにして大きな利を上げることができる通信販売は大正6年桜町2丁目角に進出する頃から次第に専門化、商売も安定し、やがて昭和になると仲間卸売りや依託生産も始めるほどの規模となり、有力企業のひとつとして頭角を現わしてきました。

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セピア色の写真が歴史を物語る

残された写真からは懐かしいセピア色の世界が見えてきます。創業まもない頃の大正博覧会に出展した柳澤商会のブースから、当時のメイン商品の品揃えが一目で分かります。今も昔も各地で催されるフェアには積極的に参加していたようです。昭和の初期と思われる同社の戦前の社屋ビルは、なかなかのモダンな作りに見えます。満面に笑みを浮かべた写真は、同じ頃、神戸で白系ロシア人のモデルに同社製水晶ネックレスを着けて撮らせたもの。当時の活躍をうかがわせます。

柳澤政吉氏は、若い頃から「花は声なくして人を呼ぶ」を座右銘とし、お客様にも社員にも明るい微笑を絶やさず、常に暖かく人に接する人柄であったと伝えられています。戦前の隆盛期には、県内ではまだ珍しい外車を乗り回していたというから、なかなかのハイカラな人物。

柳澤商会のあった桜町通りには、開峡楼や三省楼などの割烹や芝居の桜座なども立ち並び、時代もまた、華やかな賑いの時を迎えていたのでしよう。

「水晶屋さん玉を抱いて罪もなし」と宴席で歌われるほど、売上げは順調な伸びをみせ、外国との取引もまもなく始まりました。上海や香港、またアメリカやイギリスヘの水晶細工やネックレスの輸出は最盛期を迎え、満州ヘの出張販売も同業者に先んじて展開されました。太平洋戦争に突入するぎりぎりまでアメリカヘの輸出は続けられたそうです。

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